人間は初めての物にこだわるが、それと同じように最後の物にもこだわりを持つ生き物だ。ただ、両者に向ける目にはやはり違いがある。前者が未来への希望と夢ならば、後者は過去への郷愁と決別、名残と悔恨だ。
古く、カビの匂いがしてきそうな多くの道具に囲まれた複葉機を、ジャイロはただ見つめていた。目の前の飛行機は、飛ぶに必要な部分には一応の修繕が施されているが、それ以外の部分は作られた当時のままなので、ちぐはぐな姿を晒していた。
「よ、お、サボリか、プロペラちゃん」
後ろからの仇敵の声に、ジャイロは思い切り眉間に皺を作った。
「休憩中だ。お前の方こそサボリじゃないのか鳥男」
「あ、ゴメーン、俺も休憩。お前より十五分遅れで」
マスク越しでもわかる、にやにやとした、ジャイロにとって腹の立つ笑いを浮かべながら、ジュピターはプロペラを持ったロボットの隣に立った。
「しかし地球の人間て奴は細かいもんだな。こんなのは一回きりなんだし、打ち合わせだけでいいじゃねえか。聞いた話じゃ、俺達バイトが入る前から、リハーサルなんかしていたっていうしよ…、こんな……」
ジュピターは不機嫌と退屈を混ぜた瞳を目の前の古い機械に向ける。羽がなくとも飛べる彼にとって、眼前にある複葉機はジャイロ以上の骨董品、もっと失礼に言うならば、役立たずの代物にしか見えなかったのだ。
「カルチータ3号複葉機」
更なる悪態を吐こうとしたジュピターの口を塞がせるかのように、ジャイロはぽつりと目の前の飛行機の名前を呟いた。
「小回りが利き、複葉機でありながら単葉機に匹敵する速さを持ち、なにより形状の美しさから、高速の天使、蒼天の舞姫と呼ばれた、1910年代の傑作機だ」
静かな一撃は緑の鳥には一応効果的だったらしく、ジュピターはジャイロの言葉を最初こそ傾聴していた。だが、どうも心底にまでは届いていなかったらしい。
「……でも、こいつ実戦では使われなかったんだろ?」
ふうん、と気のない相槌を打って後、ジュピターは親指で機体を指さした。
「……確かに、これ、は実戦に出る事は出来なかった」
軽々しい態度にマスクの下で苦虫を噛み潰し、ジャイロは彼の言葉を肯定する。
「テストとして十機が製造され、実践投入直前にこの機体……カルチータT10-05はエンジン不良を起こした為に飛行は延期になった。飛び立った九機は予想を上回る働きをしたが、性能が優秀すぎるゆえに操縦が難しく、戦争が終わるよりも前にパイロット側のミスで、全てが失われてしまった、と言う話だ」
事情を口にしながら、気の毒な話だ、とジャイロは思う。優秀な能力を持ちながら、それを生かし切る事なく殺されてしまったのだから。
「そういったせいで、こいつは修理されても空には出られないで倉庫の骨董品になっちまった、ってわけか」
気の毒な話だねぇ、とジュピターは乱暴にまとめる。
「こいつは――そもそもが兵器として生まれたわけだろ? 根本を言えば、空を飛ぶために生まれた物だ。生まれた理由を遂行できないまま、老いさらばえて、博物館の片隅に追いやられて……」
俺だったら我慢できない話だ。呟いた彼の目に、先ほどまであった見下しの色はなく、代わりに同情の光が灯っていた。
「だから、こそ、せめて空を飛ぶ役目だけはさせようとしているんだ。これまでその理由すら取り上げてきたんだ、取り上げてきた理由を返し、それに対して何かしろの詫びや餞をするのは、当然の事だと思うがね」
「それで式典をするってか? ……それで詫びやらになるんかね?」
翡翠の鳥の言葉を、ジャイロもいくらか賛成していた。どんなに着飾り、言葉を贈っても、百年以上の忘れ去られていた事に対する謝罪には値しない。結局は自分達の罪悪感を軽減するためでしかないのだ。更に言ってしまえば……。
そこまで考えて、ジャイロは首を横に振った。あまりひどい事を思えば、それこそこの複葉機に対して失礼だからだ。様々な思惑はあるが、それでも一つ、根底にあるとすればこの飛行機を空に行かせたい、それは確かなのだ。
「1910年代、高速の天使、蒼天の舞姫と呼ばれた名複葉機、カルチータ3号が、再び空に舞います。この機体の操縦を任されたパイロットのマイケル・ギブソンさんは、かつて蒼天の舞姫、カルチータ3号機を操縦したフレッド・ギブソンさんの玄孫に当たる方です。マイケルさんはインタビューで次の様に語っています。曽お祖父さんが乗っていた飛行機に乗れる事を誇りに思います。また、この機体は他の兄弟機と違い、空を舞う事が叶わなかった悲劇の複葉機でもあり、今ここで存分に飛ばせてあげたい、との事です……」
アナウンサーがあれこれと話す中、何人もの整備士たちが複葉機にまとわりつき、最後のメンテナンスを行っている。見学に押し寄せた者達の整理を行いつつ、ジャイロは近くにいたチャージに声をかけた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くわ」
「おう、気を付けろよ」
威勢の良い声を出す彼に手を振り、複葉機近くに設置したテントへと向かう。観覧客の整理や切符のもぎりやらの他に、ジャイロにはもう一つ仕事があった。
「遅くなりました」
「おう、おせーぞプロペラちゃん」
迎えたジュピターにむっとするが、隣にいる人間に気づきすぐに眉間の皺と取る。下手にかっとなってひと暴れした、などとなったらせっかくの賃金倍増がパーになるどころか、そのものすら受け取れなくなってしまうのだ。
「ありがとうございます、本当に助かりましたよ。本来救援用に依頼していた飛行用ロボットが急に来られなくなってしまいましたから……」
GPS等の機能をつけたバンドを渡され、それを各々の腕に装着する。こういった物は素直に装備しておいた方が、後々の覚えも良いのだ。
細かい説明を受け終えると同時に、いよいよ飛行が開始する時間となったらしい。見物人の歓声と、カメラのフラッシュが焚かれる中、複葉機は滑走路へと駆ける。百何十年ぶりに回り始めたプロペラの動きは、骨董品とは思えない程素早く、滑らかだった。
期待と緊張の眼差しが交錯する中、車輪が地面から離れた。おお、と前列にいた客は声を上げるがそれでも機体の位置は低く、滑走路にその腹が擦れそうである。もどかしく、はらはらと心配が募る中、それを払しょくするように天使は天を仰いだ。
空に顔を向けた機体は風の中をぐんぐん進んでいく。そこから聞こえる音は、普通の飛行機にあるような高い物ではなく、低くて響きは良くなかった。が、遠い昔に聞いた、懐かしさを引き起こす心地よさを持っていた。
「百年以上前、にしたっておっそいな。あれで高速なのか」
天使の舞に目を輝かせる人間達を横目で見ながら、ジュピターは呆れた口調で呟く。まあ、無理もない、こいつにとっては飛行機の動きなんて、物珍しい物では……いや、遅すぎると言う意味では珍しいのかもしれない。だがつまらないものである事は絶対である。
「速さはもちろん必要だが、それだけが全てでは……?」
歓声ではない人々のざわめきに気づき、ジャイロは複葉機に目を向けた。
複葉機は未だ空を舞っている。しかしその速度は、ついさっきと比べ物にならない程上がっていた。
「パイロットから連絡が入った! 操縦が突然出来なくなった! 減速も出来なくなったとの事だ!」
慌てたスタッフからすぐさま指示を受けると、ジャイロとジュピターは空へと駆けだした。
「カルチータ機は現在、二時の方角へ向けて飛行中、高度は……」
いくら速度が上がったとはいえ、複葉機よりも若いジャイロとジェットエンジンを持つジュピターに追いつけないはずがなかった。通信を受けきる前に、二人は複葉機を捉える事が出来た。
「こちらジャイロマン。カルチータ、操縦はまだできないか?!」
「こちらカルチータ。ダメだ、操縦桿が……。少し前までは動いてくれたんだが……くそっ」
操縦桿は岩石と化したか、微動だにしない。動かそうとしているパイロットの顔は焦りの色にすっかり染まり切っていた。
「こちら本部、こちら本部、これ以上の操縦は危険だ! パイロットは速やかに脱出せよ! 繰り返す! パイロットは速やかに脱出せよ!」
通信機の向こうから悲鳴のような指示が聞こえてきる。パイロットとジャイロが目を見開いたのはほぼ同時であった。
「カルチータ機に燃料はさほど積んでいない! このままでは墜落する!」
「しかしそれではっ、住宅地だったら大変な事に!!」
「大丈夫だジャイロ! こいつが向かっているのは海だ!!」
叫ぶジャイロの通信にジュピターが割り込む。その声は珍しく必死だった。
「こいつが落ちても文句言うには海にいる魚とネプチューン位だ! この速度じゃパイロットの方がヤバイぞ!!」
その言葉を聞いて、ジャイロは即座にパイロットを見た。手の力こそ抜けてはいないが、ゴーグルの向こうにある目はこの速度に負けかけているのか虚ろであった。
「ジュピター、お前は機体を追いかけろ!! カルチータ……マイケル! 脱出しろ!! 後はこちらが何とかする!! 」
「……りょう、了解……っ」
やっとの事で返事をしたパイロットは崩れる様に機体から滑り落ちた。その力のなさにぞっとしたジャイロは彼の傍に寄り添ったが、幸いな事にパラシュートを開くだけの力は残っていたらしい。大空に広がった幔幕にほっと息を吐いていると、向こうから緑色のロボットがやってきた。
「……トルネード!? なんでここに!!」
見知った者の登場に、プロペラを付けたロボットは大きく目を見開いた。
「近くで仕事していてね。急に通信が混線したから何かと思ったら、調整所の方から連絡があったから来てみたんだ」
説明をしながら、降下するパイロットに近づく為にスピードを緩めていく。……彼と一緒ならば自分よりも安全だろう。
「トルネード、パイロットの事は頼んだ。俺はカルチータ機の後を追う。出来る限りの事はしておきたい」
「向かっている方向は海らしいが、万が一の事もあるからな。了解した、パイロットは任せてくれ」
礼を言う代わりに頭を下げ、ジャイロは背中のプロペラは最大限に回転させる。今から間に合うだろうか、いいや、間に合わせる。邪念を振り払い、彼は複葉機の後を追った。
飛ぶように後方へ流れる風景が森林から街並みへと変わっていく。向こう側に微かな水面の照り返しが見え始めたその時、ジャイロはようやく、複葉機と悪戦苦闘しているジュピターに追いついた。
「ジュピター、調子はどうだ?!」
「もう色々ダメだ!! 操縦できねえし、それ以上にこいつが持ちそうにない!」
叫ぶ合間に、複葉機の欠片が一つ、二つと燃え落ちて、剥がれていく。
「何なんだよ! もう燃料だって尽きているはずだろ?! なのになんで……!!」」
ジュピターの悪態を聞きながら、ジャイロは古い機体にへばりつく。遠くからではわからなかった熱に背筋に冷たい物が走ったが、それを振り払い操縦席に近づく。
「……もう、いいだろ? カルチータ、帰ろう」
同じ物を使って空を飛ぶ者だったからか、はたまた別の理由からか……。なぜ、人に話しかけるような口調だったかは、ジャイロにもわからない。柔らかく言葉を繋ぎながら、掌を、操縦桿を握るジュピターの手に添え、動かそうとした、その時だった。
「あ……!!」
あれほど頑なだった操縦桿が動いた。……がそれは協力的ではなく、さながら嫌だと振り解くような物だった。
後方へと飛ばされた二人を気にせず、複葉機はまっすぐ空へ、蒼空へと飛んでいく。青の世界を裂くように。日光の柱を這い上る様に。
ジャイロが声を上げるのと、蒼天の舞姫が太陽の中に消えたのはほぼ同時だった。
「え……?!」
ジャイロの体に邪魔されながらも、ジュピターは飛行機を探した。しかし、どこにもなかった。あれほど聞こえてきたエンジンの音も、鼻につくほどだった燃える匂いも、何もない。複葉機など、カルチータなぞそこにはいなかったと言うように、あるのは空の青と海の藍だけだった。
「……カルチータ……」
ジュピターに体を支えられながら、ジャイロは弱々しい声で名前を呼んだが、答える物は何もなかった。
空中庭園は今日も閑散としていた。普段ならこまごまとした仕事を行うジャイロだったが、どうしてもその気にはなれず、事務室に備え付けてあるソファーの上に寝転がっていた。
あのバイトから帰ってからずっとこの調子である。無理をしていないつもりだったが、そうではなかったのだろうか。数日後に定期メンテナンスがあるが、少し早めてもらおう、そう考えているとドアが開いた。
「よお、調子はどうだ」
望まぬ来訪者にジャイロはひどく顔を顰めてみたものの、ジュピターには効果がなかった。
「ホレ、新聞。面白いもんが載ってるぜ」
声と共に腹部に軽い物を被せられる。何しやがると文句を言うよりも先に、視界に入ってきた言葉に目を奪われた。
『……先日の特別飛行で行方不明となったカルチータ機は、オートパイロットを用いた盗難ではないかと言う見解が警察から出されている。しかし多くの専門家はそれに対し不可能だと述べている……』
『……飛行直前まで点検が行われている。その際に怪しい物は見られなかった。点検が終わった後、パイロットが乗り込んだ為に、装置を付けるのは不可能であった……』
『……更に問題の機体にはGPS機能が取り付けられており、それは行方不明となる直前まで機能していた。その瞬間に取り外されたのではないか、と思われるが、GPSは機体の底に設置されたブラックボックスと共にあり、それを飛行中に外す事は不可能である……』
『……焼失したならば、耐熱素材で作られたブラックボックスを含め、機体の残骸があるはずである。しかしそういった物は行方不明となった地点から半径十キロ内のどこからも発見されていない……』
『……更に捜索の範囲を広げるとの事だが、発見される可能性は低いとみられる。……』
『……カルチータ3号機は今回行方不明となった機体以外は全て喪失している。もしかしたら、この飛行機は兄弟の所へ行く為に、自らの意思で消えたのかもしれない……』
「感傷的な事書いちゃって……でも……」
ジュピターの声に軽薄さはない。……きっとこの男と自分の考えている事は同じだろう。続きを言わずに黙り込んだ男を眺めた後、ジャイロは持っていた新聞を綺麗に畳んで顔を上げた。
あの複葉機は兄弟の所に飛んで行けただろうか。広がる青空の中、ジャイロはちらりと光る飛行機のプロペラを見たような気がしたのである。
終わり
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