二割引きで売られていた、八枚切りの安い食パンがまだ四枚残っている。消費期限なぞとっくに過ぎているそれを眺め、シェードはどうしようかと考えていた。ロボットの自分達に腹を壊すと言う心配はないから、そのまま食べたってかまわないが、流石にそれは侘しい気もするのだ。
生活臭生々しい悩みの中、ふとシェードの頭を過ったのは、この前テレビで見たフレンチトーストだった。有名なホテルのレストランで出されていると言うそれは、今手にしているパンと同族とは思えない程分厚く、きつね色の焦げ目が食欲をそそる、目で見てもおいしそうな一品だった。
「フレンチトーストにでもしましょうかね、これ」
薄くて安い食パンだから、テレビで見た物には及ばないがそれでも満足は出来るはずだ。ようやく残っていたパンの身の振り方が決まったわけだが、とはいえ四枚を一人で消化するのはきつかった。
早速付き合ってくれる者を募集した所、スラッシュが立候補してくれた。しかし、その後が続かなかった。ジャンクは朝に甘い物は食べたくないと断り、フリーズはその気分じゃないと首を横に振ったのである。
さてどうしようか。ぐったりとした袋を前にシェードは考える。スラッシュは大食いな方だから、三枚くらいペロリと平らげる事は出来るだろうが……。
「シェード、どうしたんデース?」
ぽよん、とスプリングが肩越しから声をかけてきた。思案に暮れていたシェードはギャッと短い悲鳴を上げ、思わず飛びのいた。
「あ、あ、なんだ、スプリング……」
「ごめんなさいシェード、静かに来たつもりデシタ……」
スプリングは申し訳なさそうに瞼を下げる。まあ、後ろからの声かけは確かに驚く物だが、普段のピョンピョン大きく跳ねて動く彼の事を考えれば頑張った方だろう。早く動く動力炉を抑えながら、シェードは首を横に振った。
「大丈夫ですよ、スプリング。ちょっと考え事していただけです。気づかなかった私が悪いんですよ」
しょげている彼の頭を撫でて笑いかけると、スプリングはぽっと顔を明るくする。機嫌が直ったのを確認して、シェードは再びテーブルの上の食パンに目を向けた。
「考え事……? ドウシタンデスカ?」
「いえ、つまらない事ですが、フレンチトーストを食べる人が私とスラッシュしかいないから、どうしようかなって思いまして」
「フレンチトースト?」
小首を傾げて、スプリングは単語を呟く。そう言えば生まれた環境のせいだろう、この人は物をあまり知らないのだ。
「ええとね、牛乳と卵と砂糖を混ぜた物に食パンを浸して、焼いた物です。上手に作ると、外はカリカリ、中はフワフワトロトロになって、とてもおいしいんですよ」
上手く説明できているだろうか、とスプリングに目を向けると、彼は瞳をキラキラと輝かせている。どうやら理解してくれたようだ。
「ワァ……シェード、ソレ食べたいデース! ワタシにも作って下サーイ!」
飛び上がろうと伸びをしてかけて、スプリングははっと気が付いたらしい。大きく伸びただけの彼は、見ているだけで幸せになれる程の満面の笑みを浮かべた。
「え……ええ、それは構いませんが……しかしスプリング、貴方、食べる事が出来るんですか?」
フレンチトーストの処理に困っていたシェードにとって、スプリングの申し出は嬉しいはずなのだが、蝙蝠は少し浮かない顔をしていた。理由は簡単で、スプリングが食べている所はおろか、彼の口すらシェードは見た事がなかったからだ。
「ダイジョブデスヨ? ワタシも、実は食べる事がデキルンデース!」
くすくすと笑うバネは、ちょんと小首をかしげた。
「そうなんですか? ……それだったら、教えて下さればよかったのに。一緒に食事ができたらエネルギー代とか色々浮くんですよ」
ロボット用燃料は効率がよく、戦闘行為の最中などでは重宝するのだが、やはり値の張るものである。なのでエネルギー変換機能のある者は、出来るだけ食事を取るようにお達しが出ているのだ。
「ワタシも一緒にできたらイインデスケド、時間がかかっちゃいマース。だから、どうしてもできないンデース……」
指同士を突き合わせ、スプリングは申し訳なさそうに呟いた。時間がかかるとはどういうことだ? 疑問を覚えたが、シェードはそれ以上追及しなかった。話を聞くよりは実際に見た方がずっと早いからである。
初夏の朝の空は水色と白が清々しく混ざり合い、薄荷の香りが漂ってきそうなほど爽やかである。水道の水の心地よい冷たさも影響しているのだろうか、今洗っている皿を更に真っ白に洗い上げてしまいたくなるほどだった。
いっそ漂白もしてしまおうかしらんとシェードが考えていると、ビョンビョンと聞き覚えのある足音が聞こえてきた。
「シェー、ドっ、ゴメンナサイ、遅くなりマシタっ」
息急き切って台所にやってきたスプリングは、弾む足を止めようとしたのだろう、入った瞬間に思い切りこけてしまった。
「大丈夫ですか、スプリング? どこか壊れたりなんかは……」
「オオウ、大丈夫デス、シェード。壊れてないデース」
こすれてしまった顔の真ん中を抑えながら、スプリングは笑う。シェードは目の前の人の頬や瞼を指で擦った後、小さく肩を竦めた。
「ご飯……もう終わっちゃったンデスネ」
「ええ。ジャンクも今日は仕事で急がなきゃいけなかったですからね。でも、貴方はクイックさんの呼び出しで行かなきゃいけなかったんだから、気にしたらいけませんよ」
その手を取ってスプリングを立たせると、シェードは彼の体についた埃を払った。
「うん……デモ、これで良かったカモデース。ワタシ、ご飯食べるの、ホントーに時間が掛かりマスカラ」
手間をかけさせてごめんナサイ。付け加えたスプリングは頭を下げた。
「それこそ、大丈夫ですよスプリング。大した手間はかかりませんから」
シェードは柔らかく口角を上げると、冷蔵庫からアルミのトレーを取り出す。ラップが張られたその中には、淡黄に染まった食パンが入っていた。
「これがフレンチトーストですか?」
「そうですよ。溶いた卵と牛乳、砂糖を混ぜた物に浸しています。普通だったら十五分でいいらしいですけど、これは昨日の夜から浸しているんですよ」
「昨日の夜カラ! それでこんな柔らかそうナンデスネ」
甘い物をたらふく吸い込んだのだろう、目の前の食パンはほんの少し触っただけでも、視線だけでも崩れてしまいそうなほど柔らかである。
「有名なホテルで出される物は一日以上浸すそうですよ。それにパンももっと厚くて、耳もちゃんと切り落としてあるんです。うちはもったいないのでそのままにしていますが、これもこれでオツなんですよ」
フライパンを火にかけ、調味料入れからオリーブオイルを取り出し、一たらしして満遍なく広げる。
「シェード、ソレ、フリーズが貰ってきた奴デスヨネ?」
記憶が正しければ、今シェードが使ったそれは、先輩から貰った! とフリーズマンが大喜びで持ってきた物だったはずだ。なんでも、ライト研究所に贈られてきたお歳暮の一つで、大変貴重な品だから滅多な事では使うな、とフリーズがのたまっていた代物である。
実際の所、それはスーパーやデパートのギフトコーナーで売られているオリーブオイルである。しかしフリーズにとって、尊敬するアイスマンから貰ったと言う事実こそが貴重なのであり、例え彼から手渡された物が十円の駄菓子であっても、そこらに落ちていた棒っきれであっても、そう言ってきかないだろう。
「本当はバターなんですけど、バターは高いですからね。かといって普通のサラダ油じゃつまらないですし」
フリーズには内緒ですよ。
人差し指を唇の前に立てて、シェードはしぃっと呟く。彼の仕草に、スプリングは笑って頷いた。どんなに些末な事柄であっても、好きな人と二人だけの秘密と言うのは嬉しい物なのだ。
「それじゃあ早速焼きましょうね。千切れないように気を付けて……」
フライ返しで慎重にパンを拾い、滑る様にフライパンへと移動させる。生地が焼ける音と共に、甘い匂いが辺りに広がった。
「甘―くて、オイシソーな匂いデスネー」
傍らに立つスプリングはにぱにぱと笑いながら体を揺らす。彼が跳ねださないか、内心ヒヤヒヤしながらシェードはもう一度フライ返しを手にした。
「さて、これをひっくり返しまして……」
そっと食パンの下にフライ返しを差し入れ、くるりとひっくり返す。蒸発する音と共にきつね色に変身した片側が現れた。
「Oh!」
感嘆の声を発し、スプリングは跳ねそうになったが必死に堪えた。堪えすぎて体が伸びていたが、頑張った方だろう。苦笑いをしながら元に戻る彼を見て、シェードはこっそりと頬を吊り上げた。
先ほどまでフライパンに接していた面をスプリングは改めて目を向ける。所々についた焦げ目が、濃くなった黄色と相まって一層おいしそうである。
「さ、これで出来上がりです。これだけでも十分に食べられますが、もしよければ粉砂糖……なんてうちにはありませんから、お砂糖を振りかけて下さいね」
用意した真っ白な皿にトーストを移しながらシェードは言う。その言葉を聞いているのかいないのか、スプリングは丸い目を更に丸くして、皿の上のフレンチトーストを見つめていた。
ミルクの匂いを漂わせる表面は、焼いた為だろうかツヤツヤピカピカと光っている。その綺麗な事と言ったらまるで日光のようなのだ。
「ほら、早く食べないと冷めちゃいますよ」
シェードは喜びと期待でほんのり染まったスプリングのほっぺたを突く。かすかな感触に気づいて、慌ててカトラリーを取りに行った桃色を微笑ましく眺めながら、蝙蝠は洗ったばかりのコーヒーカップを取り出していた。
「シェードも一緒にいてくれるンデスカ?」
彼の様子を見て、やや騒がしくナイフとフォークを持ってきたスプリングは小首を傾げた。
「いくら時間が掛かるとはいえ、一人でなんて寂しいでしょう? ちょうど何か飲みたかったし、お付き合いしますよ」
その言葉に嘘はない。嘘ではないが、彼の口が見たいというもう一つの理由は飲み込んでおいた。恥ずかしがって見せてくれないかもしれないからだ。
コーヒーを淹れ、スプリングの前に座る。ニコニコしている彼は、本当に微笑ましさそのままである。
「ソレジャア、いただきます、ネ」
手を合わせてから、スプリングは顔と胴体とを繋いでいる、銀色のバネの部分に指をかけ、ぐいっと引き下げた。それ、そう動くの? とシェードが目を丸くしていると、ホウセンカが弾けるようにして口が開いたのだ。
現れた口は、アメリカンチェリー一つがやっと通るかどうかと言うくらい小さかった。普段のスプリングの声はそこそこ大きく、それこそ騒がしいと言われてしまう程である。そんな音がここから出ているのかと、思わず疑いたくなるくらい可愛らしい口なのだ。
しかし、この小ささも彼の能力を考えると当然だと思えた。とにもかくにも、スプリングは「弾性」を利用して作られている。もし口が大きく、更に露わとなっていたら跳ねまわる時に支障が起きるかもしれないのだ。
ひとまずの納得を得たシェードの前で、スプリングは口に入るサイズにフレンチトーストを切り取る。子供が食べるよりも更に小さい形にして頬張った刹那、丸い目を輝かせた。
「……っん、オイシイデスっ! シェード、これ、すっごく!!」
小さく切り分けた黄色の生地を、スプリングは次々に口の中に入れていく。たっぷりと卵液を吸い込んだ生地は、元がパンだと忘れてしまう程に柔らかく、噛み締めるとジュン、と甘い物が広がる。咀嚼のたびに動く頬は興奮の為か、それともおいしさの為かうっすらと朱に染まっていた。
小さい口を一生懸命動かして食べる彼の姿は確かに微笑ましい。リスのような小動物が、木の実などを頬張っているような愛らしさがある。しかし切り分けるのに時間が掛かるからか、それとも一口の量があまりにも少なすぎるからか、動作の割にフレンチトーストはさほども減っていないのだ。
スプリングは時間が掛かってしまうから食事は駄目だと言っていたが、なるほど、確かにそのとおりである。今のんびりしているから楽しく見ていられるからいいが、急いでいる時だったらイライラしてしまうかもしれなかった。
(……それにしても)
小さな口だと、シェードはしみじみ考える。サクランボやちょっとした苺なぞを食べたら、きっと一杯になってしまうに違いない。クリームをたっぷり使ったケーキを出したら、きっと口の端についてしまうだろう。
そんな予想を重ねていると、スプリングの口の端にトーストの欠片がついている事に気が付いた。
「スプリング、端についていますよ」
「う、え……?」
拭おうフォークを離した彼よりも先に動き、シェードは口で欠片を拾った。……スプリングの口は小さい。対して、シェードのそれは人並みであるが、彼よりも幅があるのだ。だから、口で欠片を取ろうとすれば。
「……んっ?!」
口の全てをシェードの物で覆われてしまい、スプリングは目を白黒させる。この状態を本やテレビなどで見ている為に、彼はよく知っている。つまり、これは、人でいう所の「キス」という物をされている状態なのだ。
「……っ、ひ、ア……」
事態を認識したスプリングの頬はみるみるうちに朱に染まる。それに対してシェードはと言えば全く持って平静だった。それどころか、このまま彼の舌がどうなっているのか、確かめてみたいと言う欲すら出てくる始末である。
自室ならそのまま舌を潜り込ませてしまう所だったが、残念ながらここは台所、公共の場所である。名残惜しいと言わんばかりに、シェードは音を立てて唇を離した。
「……ん、うまい具合にできていましたね」
そんな事をのたまいながら、シェードは自身の口の端をちろりと舐める。上手い具合にとはいったものの、スプリングの口元からいただいたせいだろうか、先ほど自分が食べた物よりも甘く感じられた。
スプリングはと言えば、かわいそうな程に頬を真っ赤に染め、口を押えてふらふらと揺れていた。頬や瞼に触れられる事はあっても、この部分は本当に初めてだったのだ。
遠くを見遣るような瞳をしていたスプリングは、目に光を取り戻すと、隠す様に首のバネを引き上げた。
「……ちょうどよかったノニ」
物凄く甘くナリマシタ。
拗ねる様に呟いても、シェードは笑うだけである。悪知恵働く蝙蝠の事、また口を出したら、きっと塞いでくるに違いないのだ。……今度はもっともっと深くまで。
俯いて、いやいやと首を振った後、スプリングは再び銀のバネを下げて小さな口を露わにする。
しょうがないのだ。だって、まだおいしいフレンチトーストがこんなにも残っているのだから。
拗ねたような、期待しているような、さくらんぼほどの口は不思議な形を作っていた。
終わり
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