藍色の水は一つ潜るごとに暗く沈んだ物に染まっていく。足に絡む水は凝固点に達していないはずなのに、固体となって纏わりつく。その重みのせいだろうか、無闇に動かなくても体は底へと沈む事ができた。
温度は感じられない。耳に潜り込んでくる、深海の音だけが自分の意識を現世に留めさせているだけだ。果たしてそれもいつまでもつかは、皆目見当もつかなかった。
海とプールは、勝手が違うんだよ。ここへ来る前に教えられた、バブルマンの言葉を思い出す。
「プールには確実な底があり、全てを把握する事ができる。しかし海はそう簡単じゃない。昨日あった物が流され、何もなかった場所に何かが出現する、そんな所なのだ。だから、慣れないうちは下手な行動はしない方がいい」
そのように教えられてはいたものの、しかし夢見ていた場所を訪れた感動とそれによって生まれた衝動には抗いがたく、気づいた時、ウェーブはバブルマンから大分離れた場所の、相当奥底まで潜っていたのである。
(命令違反を犯したのは俺の方だ。見捨てられたとしても、仕方がない)
静けさの中に混じる不吉な音に耳を傾けつつ、ウェーブは自身の行動の結末に納得していた。一つ上の世代と違う、純粋な戦闘用ロボットがこんな不始末を犯したのだから、そうなって当然なのである。ゆっくりと忍び寄って来る影を待っていると、辺りに白く光る細かい物が、たくさん漂っている事に気づいた。
これが噂に聞く、マリンスノーと言う物だろうか。最初こそぼんやりと眺めていたが、ウェーブはそれらが微動だにしていない事に気づいた。
(マリンスノーだったら、俺と一緒に下に沈んでいくはずだ)
しかしウェーブの知識に反し、目の前の白い物は貼りついたように動かなかった。これは一体どういう事だろう、首を捻ったその時、自身の体もまた、降下していないと気が付いたのである。
どういう事だろうか。体を起こそうと手を置くと、そこにはしっかりとした手ごたえがあった。驚愕の反動で立ち上がると、足元にがっしりとした地面の感触があったのである。海底に辿り着いたのか、と二、三回足踏みをしてみたがそこに水による浮遊感は全くなく、空気の中を歩く時と同じ安定が存在していた。
見上げた海天井には数多のマリンスノーが輝いている。いいや、この状況では、あれは微生物ではなく星と言った方がよいのかもしれない。
「海底を突き破って、星空に辿り着いたのかもなぁ」
らしくもない言葉を呟いて、天鵞絨の暗幕に細かい宝石を撒いたような世界を眺める。音もなく煌めく者達に不気味さはなく、吸い込まれてしまいそうな程の美しさしかなかった。
この奥へ足を進めたらどうなるだろう。湧き出た好奇心に飲み込むが、それでも隙間から這い出てくる。少しくらい、行ったとしても。
「おやめなさい、アナタ」
沈黙だけの世界に、海底の波音のような静かな声が響いた。自分以外誰もいないと、そう思っていたウェーブは驚き、ややつり上がった目を丸くした。
「誰だ!」
首を左右に動かし、驚きを振り払うと声をかけてきた人物を怒鳴りつける。辺りを窺ってみるが、人影はどこにも見当たらなかった。
「誰だ、出てこい! 相手になってやるぞ!」
挑発してみるが相手は誘いに乗ってくる気配はなかった。
「出たい、会いたいのですが、今は声しか届けられないんです。ワタシは、本当はここから遠い場所にいるから」
海底の声の主は、申し訳なさそうに言葉を連ねる。積もる音は頭に上った血を静め、安心を与えてくれている、ような気がした。
「……オマエはどこにいるんだ? 遠い所ってどこだ?」
「わかりません。ただ、貴方のいる場所から大分離れた所、と言うのは確かです」
声は近くなったり、遠くなったりを繰り返す。なるほど、彼の言う通り、離れた場所と言うのは確かのようだ。しかも相当に不安定な所であるようだった。
「とにかく、元の場所へ戻った方が良いです。この星底の更に果てへ行ったら、貴方は元へ戻れなくなる。飛び上がって、上を目指してください。そうすれば海底にいけます」
声だけしか聞こえないが、主は天井を指さしているような気がした。普段なら何を馬鹿な、と笑う所だがウェーブは頷いて、声の主に従った。この非現実の美しい空間が、少しずつ恐ろしいもののように思えてきたからだ。
飛び上がる為足に力を入れたが、思い直して音の聞こえた方に顔を向ける。
「アンタは、戻らないのか?」
ここが危険な場所であると言っている主は逃げなくていいのか。声だけしかないこの誰かにとって、ここは一応の肉体を持つ自分以上に危険な所であるはずなのだ。
「ワタシもすぐに戻ります、安心してください」
誰か、はそう言って笑ったような気がした。もう一度足に力を入れ、飛び上がると先ほどとは逆にぐんぐんと浮上していく。
「さようならアナタ、必ず、また、お会いしましょう」
かけられた静かな声に後ろ髪を聞こえるが、光はすっかり遠くになってしまっていた。
ふい、と目を覚ますと心配そうな顔をしたバブルとグラビティーが、視界に飛び込んできた。
「ああ、良かった。無事だったみたい」
グラビティーの顔が崩れ、大きな丸い目からぽろっと何かが零れたように見えた。……安堵している兄と違い、バブルは申し訳なさそうに眉を下げている。
「悪かった、潮の引きがいつもよりも強かったんだ。僕の判断ミスだ」
謝る彼に別に構わない、と首をふりつつも、ウェーブはさっきまでの世界にいた誰かの事を思い出していた。
また会おうと言っていたその声を、ウェーブはどこかで聞いていたような気がした。いつ、どこで聞いたかの心当たりは全くない。ただあるのは、確かに聞いたという確信だけだった。
(知らない、なれなれしい奴なんかには会う義理なんざないけど……)
ただ、あの海の底の様に静かな声は聴いてみてもいいかな。
遠い目で白い合板の天上を眺めながら、ウェーブはそんな勝手な事を考えていたのだった。
終わり
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