海の上で発生した霧は、なるほど潮の匂いが濃かった。では自動車が多く走る道路の近くで生まれた物は、排気ガスの臭いがきついのだろうか。
そんな阿呆な事を考えながら、ざぶざぶと砂浜に近い、胸当たりの深さの所をウェーブは歩く。辺りは乳色の霧に包まれ、視界はほとんど利かなかった。
昨夜、スリープモードに入る前に耳にした天気予報は、濃霧に注意しろと盛んに叫んでいたが、この有様を見ればそれも至極当然だった。このさまでは、人間社会はひどい混乱を来たしているだろうが、そこに属さぬ自分には関係ない事だ、と早々に同情をひっこめた。
しかし、全くひどい霧である。腕を伸ばしたら、きっとその瞬間に認識できなくなってしまうだろう、それほどまでに大気は白く染まっているのである。だが、だからこそ、ウェーブには具合が良かった。人嫌いな彼は、他人の気配すら許さない所がある。ともすれば視界を横切るすらも腹を立てる始末で、今日はどうもその日であったらしい。
世界には、霧と自分、そして体を打ち付ける波以外には存在しない。背筋が伸びるような冷たさと孤独を、ウェーブは贅沢に味わっていた。出来れば、薄皮に包まれた太陽が力を取り戻すまでは、この世界に浸っていたいのだが。
「……あら、ああ、アナタ、お久しぶりです!」
聞き覚えのある声と、藍色の海水を掻き分ける下品な音に、せっかくの贅沢を取り上げられてしまう。ウェーブがそれにむっすりと口を結んで、声の下方向に視線を向けると、やがて白の世界から半魚人がひょっこりと顔を出してきた。
「おはようございますウェーブ。本当にお久しぶりです」
不機嫌な自分とは対照的に、ネプチューンは霧を払うような笑顔で挨拶をしてくる。滅多にない時間を壊され、ウェーブはますます機嫌を悪くしていった。
「……何しているんだよ。お前、まだ監視中だろ。外出制限とか、まだあったと思うけど」
「ええ、それはもちろん……。でも泳がないと体が腐ってしまいますし、その事を監視員の方に訴えたら、GPSを付けて、決められた範囲内だったら一人で動いてもいいと……」
ほら、と伸ばした手にはリストが巻き付けられている。ここにいたら、自分の事もばれるのではないか、とウェーブは思わず後退る。が、別段悪い事をしているわけでもない、と思い直し、久しぶりに会った男の顔を覗いた、
「随分と緩いというか、甘いな。その監視員って奴も」
いささか呆れ気味に呟くと、ネプチューンもそれに同意しながら頷いて、
「その監視役の……スプラッシュさんって、方なんですがね、ワタシと同じ水中用で、しかも綺麗な女性なんですよ。いささか厳しい所もありましたが、元々そういう性格なんでしょうね。段々と打ち解けて、色々話せるようになりましたよ」
饒舌な彼の言葉に、腹の奥にねっとりとした、後ろ暗い火が灯る。スプラッシュの事は、ウェーブも知っている。何度か見た事があるし、それに先輩であるバブルと、懇意にしているロボットだった。
「だろうな。あれはDRN……ロックマンの所のロボットだからな」
「あ……なるほど、そうなんですか。そういえばそんな事を仰っていた気がしますね」
吐き捨てる口調に気づいていないのか、目の前の男はにこにこと、変わらない笑みを浮かべている。それを目にすればするほど、腹の中の火はじりじりと燃えるのである。
「んで、……なんでお前はこんな日に、外に出ているんだ」
自由を制限された中での外出なら、もっと日和の良い頃を選ぶべきじゃないか。
腹の中の元を吐き出すように、乱暴な口調で尋ねると、彼は目をぱちくりと、驚いた子犬みたいに瞬かせる。その表情は滑稽で、ほんの少し溜飲が下がったのである。
「そりゃあ……こんな霧の日なんて珍しいですからね。こういった自然を、味わえるだけ味わっておきたいんですよ」
ネプチューンの回答に、適当な相槌を打ってウェーブは海の方へと顔を向ける。霧は晴れるどころかいよいよ濃くなり、足元すらもわからない。
一瞬、強い風が、白い大気をかき消すように吹き付けた。薄い刃のような旋風に目が痛み、ウェーブは瞼を閉じて顔を隠す。自然の気まぐれは、少し続いたが、やがて小さな音だけを残して、跡形もなく消えていった。
「……ひどかった……?」
風の糸を払うように顔を左右に振り、同意を求めるつもりでネプチューンのいる方向を向いたが、そこに彼はいなかった。
「え……」
今度はこちらが目を見開いて、辺りを探すが、見えるのは乳白の霧だけだった。耳を澄ましても、飛び込んでくるのは足元に跳ね返る水の音だけである。
ウェーブは、一回ネプチューンを呼んだ。その声は、ただ白の空間に飲み込まれるだけである。
「ネプチューン」
さっきよりも少しだけ大きい声で名前を口にする。それでも、返事はなかった。
足がおかしいほどに震える。そんなはずはない。今、湧き出てきた物は自分が、あの時に抱いた妄執の生き残りなのだ。だって、この瞬間まで、ネプチューンは隣にいたのだ。
(あいつが帰ってきた直後とは違うんだ。あの夢を見た時とは違う、だから……)
そうわかっていても、喉の奥が引きつってしょうがない。あれは、あの時見た物だけは、今思い返してみても恐ろしくて、悲しくて仕方がなかったのだ。
(ネプチューンは帰ってきたんだ。ちゃんと、生きて戻ってきたんだ。だから、だから、大丈夫だから、だから……)
体は冷えている。だのに頭はガンガンと、オーバーヒートを起こしたかのに熱かった。首を左右に振り、ゆっくりと口を開く。ぞおっとする恐怖が上って来るが、それでももう一度、もう一回名前を呼びたかったのだ。
「……ネプチューンっ」
「……はい?」
返ってきたのは、なんとも呑気な、それを通り越してマヌケにも近い声だった。驚いて思わずそちらを向くと、ネプチューンが不思議そうな表情でこちらを窺っていた。
「どうしたんです、アナタ」
「そ、れ、は……こっちの台詞だ!」
安堵した瞬間に、今度は怒りが沸騰してくる。平然と立つ男に詰め寄り、ウェーブは強く肩を押してやった。
「どこいってたんだよ!」
「どこって……足元で何かが変に動いた感じがして、潜って確かめてみただけですよ」
ほら、とネプチューンが腕を差し出す。掌の中には、若いカレイがヒコヒコと悶えていた。……よくよく彼を見てみると、その体は先ほどと比べてしっとりと濡れており、潮の匂いが鼻に着くほど強く漂っているのである。
「そしたら、魚がいたもんで……寝起きだったみたいで、すぐ捕まえられました」
そおっと、魚を海の中へと返す。眠りから覚めない水の中へ、カレイはゆっくりと沈んでいった。
「……っ、つまらんことに気を取られやがって」
「すみません、アナタ。足の調子が悪いのかと思って」
「本当、お前は……」
人の気も知らないで。その言葉を無理やり飲み込み、ウェーブはそっと目を逸らす。……彼が、悪いのでは、おそらくない。自分が、ただ、神経質になっているだけなのだ。
ほんのりと、白い世界にぼんやりと朱が混ざり始めている。あれほど暗かった海の色が、明るいものへと変わりかけている。もうすぐ、本格的な朝になるのだ。
「申し訳ありません。そろそろ戻らなければなりません」
海水を掻き分け、ネプチューンはそっと背を向けた。
「もう行くのか」
「ええ……あんまり遅くなると、こう、出歩く事も出来なくなるかもしれませんので」
手短な言葉を残し、ネプチューンは藍色の中へと姿を消した。ただ一人、ポツンと孤独に立つウェーブは、名残の波紋に目を向けていたが、それも自然の力に掻き消えてしまう。
彼に、次会えるのはいつだろうか。まさか、もう二度と会えない事はないだろうか。
(妄想だ、馬鹿だ、オレは……)
ネプチューンが立っていた方向に腕を伸ばすが、この手では何も、空すらもつかめない。もし、これが武器ではなく、人と同じものだったら、或いは素直に、彼を引き留められただろうか。
乳白の大気を吸い過ぎたからか。それとも自覚せぬ所で、寂しさを募らせていたのだろうか。今の自分は、寒気がするほど感傷的で、零れた自嘲の笑みすらも、どこか引きつっている。
あっさりと戻ってしまった男に恨み言と、僅かな思慕を呟き、ウェーブも帰ろうと踵を返した、その時だった。
「ああ、アナタ、忘れていました」
勢いよく海の中から現れた半魚人に驚き、ウェーブは思い切り砂底に尻餅をついた。
「っっは、なんだよ、忘れものって……」
「ええ、大したものでは、多分ないかもですが」
上体を起こす手伝いをした後、丸い背中に腕を廻したネプチューンは、頬の辺りに唇を落とす。
「終わったら、すぐにアナタの所へお戻りします。ウェーブ」
バスターの腕に口付け、かの男はにっこりと笑ってから、再び海の中へと身を隠す。
「……大したもの、だよ……」
察してくれたのか、それとも、ただ彼自身の為だったのかはわからない。そのどちらにしても、自分を拾い上げてくれたのは確かなのだ。
キスをされた腕に、無言で視線を落とす。そこにいつもの刺々しさは欠片もない。
取り巻く霧はいよいよ桃色と金色に染まり、夜から朝へと変幻しようとしている。その世界で一人、ウェーブは柔らかい感触が残る腕を、ひたすら愛おし気に撫でさすっていた。
終わり
オマケ
「SRN.009、ネプチューン、ただいま戻りました」
「あら、お帰りなさい。霧の海はいかがだったかしら?」
「そりゃあ……珍しいの珍しくないので。二層の海の中を泳いでいる気分でした。面白かったですよ」
「そう……面白かったから、貴方、大分動かなかったのかしら?」
言葉を投げかけた、監視役の人魚を、じろりとネプチューンは睨んだ。
「ごめんなさいね、プライベートを楽しませたかったけれど、規則なのよ」
「まあ、……仕方ないですけどね。ワタシだって、きっと、アナタの仕事ならそれをしていたでしょう」
「でも、すごいのね。彼と仲良くなれたなんて。私、何回もバブル……バブルマンを介して会った事があるけれど、なかなか仲良く出来なくって」
「いや、まあ、ワタシも色々ありましてね……」
「期限が終わったら、あの人の所へ戻るの?」
「もちろん。……本当は、すぐにでも行きたいんですがね。……もしかしたらあの人、情緒不安のようで……」
自分のかもしれない、と思ったがそれは言わなかった。明らかに自惚れそのものだったからだ。目の奥の痛みを覚えながら、自嘲の笑みを浮かべるが、それを見たスプラッシュウーマンの顔は、何かを察しているようだった。
「そう……きっと、彼、すごく喜んでくれると思うわ」
そう、彼女は微笑む。ただその中で、うらやましい、と小さな声で呟いたのを、ネプチューンは聞き逃さなかったのである。
終わり
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