世界的なロボット工学者、トーマス・ライトの狭く小さな住居に、足を運ぶ人は多い。彼と同類の学者はもちろんの事、政府の役人や企業の幹部、ただロックに会いに来た子供など、その種類は様々である。
今日も若者が一人、彼の家のドアを叩いている。重い書類を持った彼を出迎えたのは、少女のロボットだった。
「どちら様ですか?」
ポニーテールを揺らしながら、彼女は礼儀正しく尋ねてくる。若者は名前を名乗った後、ブリーフケースを少し持ち上げ、表情を和らげた。
「ライト博士にお会いしに来ました。どうしても、ご相談に乗っていただきたい物がありまして……」
彼の表情に対し、少女の顔は少々困惑の影が差す。視線を廊下の奥に向け、申し訳なさそうに口を開いた。
「あの……すみません。今日はお客様が……」
「いいえ、お時間はそんなに取らせません。用事が終わればすぐに帰りますので、どうか……」
なおも食い下がる彼に、自分では抑えきれないと判断したのだろう、少女は僅かに考えてから、どうぞ、と家の中へと案内をする。彼女に礼儀正しく礼を述べ、若者はようやっと通されたライトの書斎のドアをノックした。
「失礼いたします、ライト博士」
声をかけても、部屋からの返答はない。首を傾げ、今度は強めに品の良い木のドアを叩いた。
「失礼いたします、ライト博士、私は……」
「鍵なら、開いているよ」
ようやく聞こえた声は、ドア越しでありながら、非常に弱弱しい、大病を患った者のそれだった。一瞬戸惑いを覚えたが、しかし若い彼は、それに躊躇する事無く、敢然として扉を開けたのである。
部屋の中は、先ほどまでのこざっぱりとした世界とは、全く様相を逸していた。壁一面に背の高い本棚が並び、容量を遥かに超える本が、取り出せないのではないかと思うほど、ぎっしりと詰まっている。天井からはコードが何本も下がり、それらは広い机に幾台も設置されたパソコンに繋がっている。床は入りきれなかった本や書類が、山と白い平野を作っていた。
ぱっと見た限りでは、ただ仕事熱心な男が掃除をさぼっただけの部屋である。しかし、この雑然とした部屋に、ただ掃除が行き届いていないから、だけでは済まされない、悲しい何かが内在している事に、若者は気づいていた。
何とか開いている空白地帯に足を置きながら、彼は恐る恐るその足を進ませる。たっぷり三分はかかっただろうか、男は、ようやく声がした所にまでたどり着いたのだ。
書類と本、いくつかの工具に埋もれた机は、使い込まれて風格が滲み出ている。その前に設置された椅子に、部屋の主、Dr.ライトは座っていた。が、若者は彼を見た時、思わず体を仰け反らせたのだ。
「わしに、何か用かね?」
若者は、ドクターライトに直接会った事はない。だがその地位ゆえに様々な媒体で彼の事は報じられており、故に風貌などは知識にあったのだ。
しかし、目の前にいる男は、彼が知っている老博士ではなかった。あの恰幅の良い体は、少々やつれて不健康な形に変形し、柔らかく、弾力に富んでいそうな白いひげは、くすんですっかりしなやかさを失っているのだ。
呆気に取られ、言葉を忘れた若者に、老人はやつれた顔で、精いっぱい笑って見せた。
「すまなかったね、挨拶が遅れていたよ。私が、トーマス・ライトだ」
手を差し伸べられ、若者はようやく意識を取り戻し、名乗りながら握手を交わした。見えた顔には、記憶にある人の良さの名残がある。……やはりこの人がライトなのだと、認識すると同時に、彼は一抹の寂しさを覚えていた。
ライト宅を後にした彼は、角を曲がってすぐに大きく息を吐いた。一抹の、まださほど功績も上げていない科学者にすら礼を尽くす老科学者に尊敬の念を強めるが、それと同時に憂憤のようなものも胸に湧き上がっている。
ブリーフケースから、背表紙に何も書かれていないバインダーを取り出す。表紙を捲って現れた紙には、「ロボット新法改正嘆願署名」と書かれていた。
「君、君は……」
胃の中に渦巻く何かに煩悶しながら、その文字に目を落としていると、後ろから声をかけられる。慌ててバインダーを閉じて後ろを向くと、眼鏡をかけた、壮年の男が立っていた。
「コサック博士……」
全身から力が抜けるのを感じながら、若者は小さく息を吐いた。緊張を解いた彼に対し、コサックの方は、しかし未だに顔をこわばらせたままである。
「訪問者がいる、との事でしたが、博士だったんですねぇ」
ブリーフケースにバインダーをしまう彼の腕をつかみ、壮年の学者は眼を鋭く尖らせる。
「ロボット新法改正について、まさかライト博士に」
尋ねる声に身を震わせ、若者は素早く首を横に振った。
「いえ、いいえ、新しい動力炉の構造について、少しアドバイスをしてもらっただけです」
コサックはじっと、青くなった若者を見つめる。息の詰まりそうな空気だという鬼、鳥の声と、遠くの往来を走る自動車の排気音が混ざり合い、不思議とのどかな響きを作っていた。
「そうか……すまなかった」
目を伏せたコサックは、ゆっくりと掴んでいた腕を離した。掴まれていた部分を摩り、若い科学者は首を振った。
「いいえ……本当は、最初、それもライト博士にお話ししようと思ったんです」
でも。
彼は両手でブリーフケースを抱え直し、じっとそれを見つめる。口の開いた鞄からは、そのほか様々な書類入れやバインダーが詰まっていた。
「……やっぱり、無理でした。博士の言う通り……今のライト博士に話すには……」
釘は刺されていた。年を取り、心も体も、治りが遅くなったライトが人前に出るほどに回復するには時間が必要だと。仮に今の弱り切った彼が外に出たとしても、人の心を変化させるほどの力を振るう事は出来ない、むしろ事態を悪化させるだけだと。
コサックの忠告を、若者を口の中で反芻する。しかし、瞼の裏に映るのは、志を同じにする、仲間たちの姿なのだ。
「でも……それでもやはり、動かないといけないんです。人々は多くがロボット新法のある生活に慣れ始めている、完全に慣れてしまってからでは、もう、改正の目途はありません……」
顔を横に振り、それ以上の情報を入れないと言うかのように、彼はきつく目を閉じる。自身にも身に覚えのある、若者特有の頑固さに、コサックは苦笑を浮かべたが、すぐに顔を引き締めた。
確かに、目の前の彼の言う事も、一理ある。新法が施行された当初、ロボットの処理は多くのメディアの話題となっていたが、今はネットや新聞の三面記事……しかもほんの数行程度の物しか掲載されていないのだ。
情報の少なさは、それが非日常から日常へと変化しつつある事を表している。いずれは毎週のゴミ出しのように、当たり前の物として埋没してしまうのは目に見えている。当たり前を変更するのは、誰でも理解している事だが、億劫なものである。確かに、彼の言う通り、今こそが改正への最後のチャンスなのだ。
理性の上で、コサックは若者と同意見だった。しかし本能と感情は、明らかにライトに同情していた。
……思えば、トーマス・ライトと言う学者は非常に幸福であったのかもしれないと、ライト邸を見上げながら、コサックはそんな事を考える。普通であれば関わらなければならないだろう、世間のしがらみや悪意に触れる事なく、ただ一心に、愛するロボットの事を考えているだけで済んでいたのだから。
それを可能としていたのは、……おそらく世界征服を企んでいた、あのワイリーなのだろう。彼が悪事を企て、それをライトの製作したロックが防ぐ、その構図のおかげで、世間はロックを、ひいては彼を作り上げたライトを特別な目で見る事となった。
人々は彼が作るロボットを、彼が少しでも関わったロボットを欲しがり、ライトはただただロボットの発展を願い、その要求に応えていた。その構図を、他のロボット工学者が見ていて面白いはずがなかったのだ。ライトにそのような意識がなくとも、結果的に彼が市場を独占してしまっている事に代わりがないのだ。幾人かの学者が約束を反故して賛成派に回ってしまったのは、こすっからい世間から見れば仕方のない事、だったのかもしれない。
だが、そのようなものを味合わず、更に年老いてしまったライトには、その裏切りは、若者には理解できぬほど重い衝撃であり、純真な彼が触れるにはあまりにも残酷すぎたのだ。
「……私も、ライト博士にはそれとなく伝えておく。だから……」
「申し訳ありません……。最近は急進的な派閥も出てきていて、このままではこちらは空中分解してしまいそうで……本当に、すみません……コサック博士も、……ライト博士にも」
若者を送り出す最中、コサックはふと、ライト宅の方を振り向いた。二階、書斎に位置する窓に、ライトが立っているのが見える。コサックはそっと会釈をしたが、老人はそれには気づかなかったようだった。
去りゆく二人を窓際で見送りながら、ライトは小さく息を吐く。
若者が、本当は何をしに来たのか察しはついていた。しかしそれに立ち入る気力が、今の自分には残っていなかったのだ。
ゆっくりと長年使い込んだ椅子に座り、今度は深く、肺の中の空気も何もかもを絞り出すように呼吸をする。ただそれだけの動作であるのに、体は長い距離を走りこんだような疲労を覚えていた。
首を動かす事すらも鈍い痛みを覚え、ライトは机の上に飾った、二つの写真立てに視線だけを向けた。一つには、ロックやロール、カットマン達が写っている。
それに目を細めながら、しかし彼は、もう一つの方の写真立てに手を伸ばした。そこには、先ほどのロボット達より大分後に手掛けた者達……新ライトナンバーズが写っている。ロック達の物と違い、彼らの表情はいささか強張りが見えていた。
彼等は、先に生まれたロック達と違い、ライトが完全に手掛けたわけではない。設計は確かに彼が行ったが、製造はロボット達の就業場所……ダイヤモンド鉱山ならばそこを所有する鉱山会社、地熱発電所なら発電所の関連会社が行っていた。故に会う機会も少なく、この写真を撮影した時に初めての全員が集まったのだ。
製造まで関わらなければ、自分の作った物、と言えぬかもしれない。しかしライトにとって、己の手によらぬ物であっても、彼らはロック達と同じく、自分の子供だった。ライトナンバーズ、の番号をつけたのは、ただの銘柄や区分けと言う理由からではなかった。
写真を見つめる、老人の目は慈愛に満ちている。しかし、その眉間には次第に深い皺が刻まれ始め、ライトはついに視線を逸らした。その胸中は荒れ野のように乾き、血液の流れや呼吸だけで、ヒリヒリと焼け付くように痛んでいた。
写真に写る彼等……、新ライトナンバーズは、ロボット新法により処分が決まっていた。ロックの世代のライトナンバーズは免除規定に含まれていたが、新世代は製造時期等が条件に該当しなかったのだ。
「お前達を……」
そこまで言いかけて、しかし、老人はぐっと感情を飲み込む。その先を、自分は言ってはならないような気がしたのだ。
魂が抜けたように、ぼんやりと天井を見つめる。上質の木材で作られた天井板には、見事な木目が刻まれている。それらは波打つ形をしていたが、次第に身をくねらせ、捩じらせ、数多の人の顔かたちへと姿を変えてゆく。
(しかしですなDr.ライト)
影が一つ、ゆらゆらと揺れながら自分に近づいてくる。口ひげを生やしたそれから離れようと、体を椅子の端に寄せるが、そんな抵抗は僅かなものでしかなく、あっという間にまとわりつかれてしまった。
(世界中で日々新型のロボットが生産されています。旧型のロボットを使用し続ければ、新たに作られたロボット達は、日の目を見る事無く倉庫の肥やしになってしまう。せっかく作ったロボットが使用されない、こんな事が続けば、新型開発の意欲が低下し、ロボット産業全体の低迷に繋がってしまいますぞ)
そうです、ともう一つの、黒眼鏡をかけた、少々若い影が囁いてくる。
(工事現場等の労働者にアンケート調査を行った所、旧型ロボットの使用に不安を感じている、と言う回答が四十パーセント近く出ています。それに旧型ロボットの不調によって発生した事故も数件発生していますし……)
(事故が起これば、ロボットに対する世間の目は、ただでさえ厳しくなります。使用期限を設ける事は、ロボットによる事故を防ぎ、ひいては、彼等の地位向上の手助けをするものですよ)
法への賛同の嵐を聞きながら、ライトは大きく目を見開いた。自分を取り囲む影の顔や、彼等が口にする台詞は、その全てがロボット連盟の会議で、ロボット新法に賛成していた者達の物であると、ようやく気づいたのだ。
しかし、それに感づいたからと言って、体の硬直が解ける事はなく、それどころか鉛のように重く冷えるだけだった。それの事に目を付けたのか、黒山の一つに連なっていた影が、のろりと詰め寄って来る。五体どころか、声帯すらも金属の呪いにかかったライトは、逃げるどころか、呻く事すらもできなかった。
(ライト博士……、人間だって年老いれば引退するのですよ。ロボット達だってそうです。古くなり、CPUの動作が鈍くなってゆく、関節部品が摩耗して動作が悪くなる……これらはさながら、生き物の老化そのものじゃないですか)
恭しく語る彼の態度は確かに礼儀正しい。だが、手ぶりや言葉の端々には嘲笑の感情が滲み出ていた。
(人間は引退と言う道を選べますが、しかし博士、博士は、彼らが壊れるまで働かせる事をお望みなのですか? それこそ非人道じゃないですか)
「違う!!」
せせら笑う幻を振り切るように強く叫ぶと同時に、ライトは勢いよく首を横に振った。あれほど硬化していた関節が、自分でも驚くほど滑らかに動く事に戸惑いを覚えながら、もう一度天井に目を向けると、人の影はなく、ただ木材の曲がりくねった木理があるだけだった。
「違う……違うんだ……」
現実に戻った事に安堵を覚えるが、緊張から解き放たれたせいだろうか、ひどい疲労に襲われる。弛緩した体はいよいよ椅子に沈み、眼窩の周囲に熱を感じても、手を当てる事すらできない程、彼は疲れ切っていた。
彼等、ロボット工学者達の言っている事は、確かに理解できる物だった。おかしな所は何一つない、万人が認める正論だろう。それはライトにもわかっていた。
工学者達は気づいていないのだろうか。あるいは、振りかざす言葉の正しさに目が眩んで、わからなくなっているかもしれない。そう……彼らの理論は「心のある者」に対する物ではないのだ。……あくまでも、道具を見るものの視線で語っているのである。
(彼らにとって、生み出したロボットは、ただの道具にしか過ぎないと言うのだろうか……)
抱いていた期待と、それと異なる現実の相違に心を喰らい尽くされる。遠い昔、ロボットの心の必要性を訴え、夢物語と一蹴された時にも同じ疼きを覚えたが、しかし痛みは、今の方がひどく、治りもまた遅かった。それが加齢によるものか、精神が硬直したせいかはわからないが、今のライトにとってはどちらでも良かった。
視界が一瞬、薄く墨色に染められる。何事かと窓の外に目を向ければ、雲が太陽を覆い隠していた。光を奪う覆いの端の色は濃く、どうやら一雨が来るようである。
それを予想したのは自分だけではないのか、眼下を更に眺めれば、ロックとロールとライトット、それから近所の住人が、慌てて洗濯物を取り込んでいる様子が見て取れた。ガラス越しで届かないが、どうやら世間話をしているらしく、一人と三体の顔はとても朗らかだった。
その様子を見つめながら、ライトは自分の顔に血の色がほんのわずか、戻っている事に気づいた。先ほどまで氷で冷やされ続けたように凍えていた頬に、熱が微かにだが宿っているのである。
髭の下に隠れた頬に触れ、ゆっくりと上へ上る。瞼を覆うと、彼は重い息を一つだけ吐いた。
(人間のパートナー……良き隣人……)
暗い世界の中を、かつて掲げた目標が、叶えたと思う夢が白い文字となって飛び回る。それらは燕のように空を泳ぐと、やがて闇の中へ溶けて消えていった。
(……ロボットがそのような存在になるように、これまで頑張ってきた……)
零れそうな物を堪えながら、もう一度椅子に腰を掛ける。先ほどよりは力が入った、まだ生きている座り方で、ライトはただ瞼を強く押さえつけていた。
(だが……それは私一人だけの、ただの押し付けに過ぎなかったのかもしれない。ただの……)
……自分のしてきた事は無駄だったのだろうか、と結論をつけそうになるが、そのたびにライトは強く首を振った。そうではないと、例えばコサック博士や、彼よりも年下の科学者などの若い世代は、ロボットをただの道具とは見ていないのだから。
(無駄ではない……無駄にはなっていない、……)
自分の蒔いた種は確実に芽吹いている。現に、先ほどの若き科学者は、ロボット新法を改正する為に戦っているではないか。今は道を間違えてしまったとしても、遠い未来の為、現在を変えようと努力する事は無駄ではない。そして、その道へ進むために、自分も動かなければならないのだ。
……それを理解しながらも、それでも、まだライトは立つ事が出来なかった。長年をロボットと共に歩んできた、かつて自分の同期達の言葉が、あのロボット連盟の会議に参加していた科学者たちの話が、未だ心を嬲り続けているのだ。
(私の考えが甘いのかもしれない……ただの身びいきなのかもしれない。だが、それでも……)
「私にとっては……」
湧き上がる物に翻弄されながら、ライトは今一度写真立てに目を向ける。
「ロボットは……お前達は……大事な……」
続きを連ねる事は出来なかった。そのように思っていながら、なぜ救いの手を、せめて自分が手掛けたロボットにだけでも差しのべようとしないのかと、自分を叱責する、かつての盟友の声が聞こえたからだ。
(……力を持ちすぎてしまったんだ……私は……)
法の成立がいよいよ色を増してきた時、ライトはそれでも抵抗を続けていた。せめて、多くのロボットが救われるように、と。しかしそれを叶える事は出来なかった。ロボットを使用する上での安全を考えるなら、もっと厳格にすべきだ、と言うまっとうな意見の為にである。
(基準を甘くして、それによって本来処分した方が良いほど老朽化したロボットが残ってしまい、それが事故を起こしたら、それこそ一大事です。今は基準を厳しくし、様子を見ながら緩めていく方が妥当でしょう)
自分への反対意見は、絶賛と同意の拍手で迎えられた。その理路整然とした正しさは、確かに自分も認める物だったのだ。
……自分の提案は「理性的な正論」によって退けられ、反対を唱える言葉は「感情的」の一言で押しつぶされてしまった。世間は「ロボットに感情移入しすぎている」と語っていたが、わが子の命の危機に焦りを覚えない親がいるだろうか?
「お前がうらやましいよ」
言葉を投げつけた友の幻影に語り掛ける。彼のように自由であれば、或いは強ければ。そのように考えるが、ライトはその振る舞いが全ての崩壊に……かろうじてつかめた、カットマンたちの命すら危うくする事をよく知っていた。
閉じた唇を血が滲むほどに噛み締め、掌を傷つけるように爪を立てて握りしめる。焦燥と無力感、そして懺悔に揉まれながら、老人はまた天井を仰いだのである。
すし詰めになったトラックの荷台の中、膝を抱えて、じっと、通り過ぎる町の風景を眺める。自分より背の高いロボットが前に鎮座している為に、入って来る情報は僅かだが、どんな欠片であっても目に収めておきたかったのだ。
環境と車から出る音以外、何も聞こえない。これだけのロボットがいるのに、誰も、稼働音の一つすら出さなかった。……いや、出せないのだろう。何しろ、これから自分達は廃棄処理場へと向かうのだから。
無言の中、左胸に視線を落とす。緑色の装甲の一部に白く、DR-TNと刻まれた文字が視界に入り、ほんの一瞬だけ、顔が歪んだ。
思考の中を、ふ、と白い髭を生やした老人が、通り過ぎてゆく。柔和な笑顔を浮かべたその人の表情は暖かいけれど、どうしてだろう、動力炉が締め付けられるように痛むのだ。
「……博士……」
切なさに耐えきれず、言葉にして感情を追い出したが、それでもまだ痛みは止まらない。唇を噛み締め、膝に強く、目を潰すほど顔を押し付けた。
白い髭の老人……ライト博士、は自分を作った人だ。正確には設計をしただけであって、直接の製造には関わっていないと言う話だけど、それでも、ライト博士が作ったロボット……DRNの番号が付けられていた。
このナンバーを、世間ではブランドだとかなんだとか色々言うけれど、自分はそんなものとは関係なく、つけられた番号を誇りに思っていた。
(例えほんの一部だったとしても……私にとって、手掛けたロボットは……お前達は……特別な、自分の子供のような存在なんだ)
手を包みながら言われた言葉は、今でもはっきりと思い出せる。ロボットの科学者はたくさんいるけれど、こんな風に扱ってくれる人は世界に何人もいないだろう。まして製作のたった一部に関わっただけのロボットにも、だ。
優しい人は他にもたくさんいたが、特別だ、と言ってくれたのは、ライト博士だけだった。ロボットにもそのように関わってくれる人が、自分がこの世に出る手助けをしてくれた事に、心の底から誇りを持っていたのだ。
景色は日常の色濃い物から殺風景な物へと変化してゆく。そのせいだろうか、周囲の者の表情も強張りが強くなってゆく。……いよいよその時が近づいてきたらしい。
覚悟は、多分、出来ているはずだ。その為に仕事の引継ぎもしっかりと行い、心残りも……いいや、少しだけあるが、それは飲み込んでおくべきなのだろう、とにかく、恥とならないよう、務めてきたのだ。
平常心を心掛け、粛々とその時を待ったが、しかし、息苦しさに顔を上げた瞬間、静寂を保っていた世界に荒波が起こったのだ。
通り過ぎる風景の一瞬に、白い人影が混ざりこむ。普通ならば無視してしまう物だが、しかし、その白色には確かに見覚えがあった。忘れるはずもない、……自分を生み出してくれた人だ。
「ライト……!!」
呼びかけても、声は風にさらわれてゆくだけだった。ぎちぎちと詰まった荷台の中、それでも身を捩って、近くへと寄ろうとするが、トラックは無情にも老人から遠ざかってゆく。
人間だったなら、この段階で諦めてしまいそうなものだったが、こちらはあいにくとロボットだった。発達した視覚は、豆粒大ほどの老博士の表情と、傍らにいた少年の顔をつぶさに捉えていた。
「はか、せ……」
伸ばした腕は力なくしな垂れる。先ほどまでしっかりとしていた姿勢は、骨が抜けたように崩れていた。
「……博士……」
封印していた心が、堰を切ったように溢れてゆく。それはあまりにもどす黒く、不快なものだらけで、自分が生み出したと言うのに吐き気を催した。
「俺は……俺、は……」
胸を掻き掻き毟って自責する。普通なら感謝や、惜別の情を抱き、博士を気遣うべきなのに、自分勝手な事しか浮かばない。自分の中にこんな物があるなんて、気づきたくもなかった。
(博士……博士……博士……ライト、博士……)
過去と現在の姿が交錯し、CPUを圧迫してゆく。人工網膜が腫れ上がり、熱を持った輸液のせいで喉が痒いほどこれ以上ないほど圧迫された。
「俺は、博士の、特別な」
数多の感情に翻弄され、ようやく一言を呟けそうだったが、言い切る事は、叶わなかった。
もういい、と老人は傍らに立つ者に声をかける。丸鋸の意匠を凝らした、赤いボディのロボットは無言のまま持ち運び型のディスプレイのスイッチを切り、繋いでいたコードを抜き取ってゆく。
作業を彼らに任せ、老人は瓦礫の海に横たわった、緑のロボットの頬に指を走らせていた。人工皮膚の頬に液体が伝った痕が窺える。ただの風雨によるもの、と思えないのは先ほどの映像……彼のCPUに残っている記憶を見ただけでなかった。
星も月もわからぬほど、天上は黒い雲に覆われている。錆とオイルの匂いが混ざった湿気の強い風を受け、ゆっくりと辺りを見回す。物言わぬ躯と化したロボット達が、人曰く「ごみ」となって荒野と山を形成している。目の前にいる彼はまだ綺麗な方で、中には元の形のわからぬ残骸となっている者すらいた。
千切れた腕の一つを手に取り、汚れを指の腹で拭う。この腕の持ち主も、緑の彼と同じように戸惑ったのだろうか。下された運命を呪い、そこに突き落とした人間を恨む自分を蔑んでいたのだろうか。
「……可哀想に……」
その健気な姿勢に痛々しさを覚えながら、老人は息を吐いた。……推奨される良い感情以外が湧き上がってくるのは、心を持つ者として当然である。人間も一応、彼らのように、呪いや恨みが湧き立つ事を責めるものだが、これらを怒りに変換し、抗議や抵抗など、正当な手段に訴えたり、或いは心を持つとはそのような物だと、黙認したりできる。
しかし彼らロボットには、そのような変換は働かない。湧き上がる物を悪と決めつけて封じ、納得のいかない事でもただ黙って受け入れるしか許されていないのだ。
「……こんなロボットを、お前は望んでいたか? 俺達は望んでいたか?」
綺麗にした腕を元の場所に戻し、老人は話しかけるように呟く。胸に去来するのは、同じ将来を夢見た者と駆け抜けていた遠い昔の出来事だった。
(……人間の命令が必ず正しい物とは限らない。だから、ロボット自身も考え、経験し、そして彼ら自身で答えを出す、人間のパートナー的な物になるべきなんだ……)
盟友だった男の呟きに、老人は冷笑を浮かべるだけだった。現状のロボットは、パートナーどころか、かつてと同じ、道具に成り下がろうとしているのだから。
「今でもそう思っているなら……特別だと思っているなら……どうして手助けしてやろうと、しないんだ、しなかったんだ、ライトよ」
このような……自分のロボットすら犠牲となっている現状ですら、動きを見せない男の名を呼び、地面を踏みつける。……まあ、信じていた周囲からの裏切りに、あの甘い男は耐えきれなかったのだろうと、そう予想はしているが。
「博士、作業終了しました」
ポツポツと、大粒の雨が降り始める中、敬礼をしながら、赤いロボットは報告してくる。頷いて振り向けば、先ほどCPUを覗いていた緑の彼を含め、八体のロボットが横たわっている。全てのロボットの装甲には、DRのナンバーが刻まれていた。
「処分に出されたライトナンバーズはこれで全員のようです」
蛇型のロボットは苦り切った表情で重々しい声を出す。彼の隣に立つオレンジ色のロボットの表情も沈んでおり、いつも浮かべている朗らかな笑みは見られなかった。
「八体、か。ちょうど良い数だ」
あえて、機械的な調子で呟き、老人は先ほどまで記憶を覗いていたロボットの頭を膝の上に乗せる。真一文字に結んだ唇は、作業の結果そうなったのだろうが、先ほどの回想も手伝ってか、感情を押し殺した果ての姿にも見えてくるのだ。
起動の為の準備をするよう、視線で合図すると、自分の子供達はすぐにそれに取り掛かってくれる。その中に、今度は自身も加わった。
「……さあ、目覚めるんだ。……お前達は、まだまだ活躍できるのだから」
眠る彼らに囁きながら、CPU部分に手を伸ばす。思考改造を施そうなどとは考えていない。ただ、彼等につけられている枷を一つ、外すだけだ。
「……お前達にも、生きる権利が……生きたいと、叫ぶ権利はある」
優しく教え込みながら、彼等の頬や頭を撫ぜてゆく。一瞬、ロボット達の表情が緩んだような気がしたが、きっと気のせいだろう。
(世間のしがらみに動けない、と言うなら、こちらが動くまでだ。……ただし、こちらのやり方で好きにさせてもらうが、な)
ロボット達に刻まれたナンバーはそのまま残しておく事にした。そのようにすれば、当然、あの男の名誉も傷つく事になるのだが、そのような苦役を背負わせるのに惑いはなかった。理由はいくつもあるが……正当な方法で世間に訴える力を持ちながら、打ちひしがれて何もしなかった、かつての友への苛立ちも、含んでいた。
「……お前にも、少し協力してもらうぞ、ライトよ」
友の名を口にして老人は……ドクターワイリーは口元だけを吊り上げたのである。
終わり
件名リクエスト様、大変お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
なかなかライト博士の心情を捉えるのが難しく、また私個人の考えも混ざってしまい、ご希望に沿った物とはいささか違ったものになってしまったかもしれません。それでも楽しんでいただけた幸いです。
リクエストありがとうございました。
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