群青色の空には、銀の粉が丹念に塗してある。常であれば、その細かいを喰らうほど強い光を持った月が鎮座するのだが、今日は場所を追われたらしく、今いるのは小さな粒だけであった。
そこから視線を下に落とせば、天井の色と同じに染まり、境がわからなくなった海がある。凪の穏やかな水面には、僅かに歪んではいるものの、空の砂光が映りこんでいるのでいよいよもって、天地がわからなくなっていた。
「……」
その奇妙な、しかし美しい世界の磯で、ウェーブは一人座り込んでいた。脇には、白く薄い封筒がいくつも彼に付き合っている。
一封を手に取り、中から便箋を取り出す。そこに書かれていた文字は見るも無残な物で、カクカクと直線になっているかと思えば、力を込めすぎて太くなっていたり、かと思えば消え入りそうなほど薄く、ヘロヘロに弱っていたり、となんともまあ、凄まじい状態だった。
「……ひどいな」
顔を顰め、誰となく呟く。慣れないハンドパーツを用いて書いたから、とはいえ、さすがに頂けない字である。これで内容が他愛もない事であれば笑って済ませ られるだろうが、生憎とそこに書かれているのは、他人への告白――しかも好意の――である。こんなものを受け取ったら、怪文書と恐れられるか、或いは嗤わ れるかのどちらかであろう。
それでも。
ウェーブは思う。それでも、彼は読んでくれただろうと。苦笑いをしつつ、遺跡に刻まれた象形文字を解読するかのように、頭を捻りながらこれを読み解こうとする、ある男の姿を目蓋に浮かべ、口元に薄い笑みを作った。
ある男――ネプチューンはひどく気性の穏やかなロボットだった。彼は地球外惑星で戦闘用として作られたそうだが、その生まれに反して、なかなかおっとりとした性格で、気の荒いウェーブがいかなる罵詈雑言に近い物を投げても笑いながら受け止め、柔らかい返答に変えていた。
最初こそ、その応対にひどく腹が立ったものだが、しかし気の高ぶった時に聞く彼の声は、ウェーブが好きな海底の漣と同じ、優しい静かな音でひどく心地よく、耳 に届くと心が穏やかになった。
それに惹かれ、地球に慣れる為のトレーニング以外でも彼と共にいる事が多くなり、ネプチューン自身に心を寄せるようになるのに、時間はかからなかった。
普通ならば、そこで今までの態度を謝罪し、心の内を明かすのだろう。しかし、ウェーブはそれが出来なかった。生来の人嫌いに加え、会話術が下手な彼に、告白を含めた事を口にする勇気はなかったのだ。故に心を隠し、感情を奥に閉じ込め、表面上は素っ気無い対応をしていた。
だが、それでも吐露しそうになる事があった。膨らむ情を抑え切れず、惚れていると腕に縋りつきたい衝動に駆られるたびに、ほったらかしにしていたハンドパーツを引っ張り出しては、紙に激情を綴った。
この方法はそもそも、短気を抑える手段として、バブルマンが授けてくれたものであった。感情を攻撃で抑圧するウェーブに、武器を銛からペンに、対象を壁や 物から紙に置き換える事で基地の破損を少しでも控えさせようとしたのだ。しかし両の手が武具となっている彼に書くと言う行為はなかなか難しいもので、思うとおりにならない字に腹を立て、結局壁を壊すオチとなっていたのである。
最初こそ、それは乱暴なラクガキに過ぎなかった。しかし枚数が溜まるうちに、これならば気持ちを伝える事ができるのではないか、と考えるようになっていった。
紙の上ならば、相手に伝えるまでに推敲する事ができる。声で伝えるに は相手が目の前にいなければならない上、怖気づいた時に撤退するのも難しいが、手紙はそれらの問題を回避する事が簡単だ。世間にはラブレターと言う物もあるから、おかしな物ではないと考え、ウェーブは思慕を便箋に綴るようになった。
完結した物、途中まででくしゃくしゃにした物、名前だけで取りやめた物……ヘタクソな手紙は、次第に数を増して行く。目に見える形になればなるほど、自身の思いの大きさを知り赤面するが、それは悪いものではなかった。
ウェーブは少しずつだが、変わろうとしていた。しかし。
「…………」
目頭がじわじわと熱に侵食されてゆく。上を向きかけたが、すぐに思い直して視線を手の中の手紙に落とした。星空を見る事が出来なかった。頭の上に広がる、空気の層を抜けた先を見るのが――ネプチューンが消えた場所を見るのが辛かった。
思慕の人は、もういない。ネプチューンは、最近行われたワイリー博士の作戦に、同じよう地球に連れてこられた仲間と共に参加し、地上でロックマンに負けると、すぐに最終防衛ラインであるワイリースターがある宇宙に上がった。そこでもう一度ロックマンと戦い、そして――爆発に巻き込まれて死んだ、と言う。
はっきりとした事はわかっていない。ワイリースターにいたのは彼と彼の仲間――スペースルーラーズと言う――とロックマンキラーズ、それにワイリー博士だけで、DWNは決戦時にはそこにいなかったのだ。だからもしかしたら、と言う希望はあるのだ。
だが、それはあまりにも薄い望みだった。爆発を起こしたのは、スペースルーラーズが崇拝に近い対象としていたと言う、サンゴッドというロボットだった。 ロックマンに負けた事により、彼に内蔵されていた爆弾(これは博士がつけたものではなく、地球に来る前からセットされていたらしい)が作動したのだ。
殉じたのだ、と誰かが言った。我々だって博士がお隠れになったなら、きっとそうするだろう、と。
恥じて死んだのだ、と誰かが言った。遅れた文明で作られた、しかも元々戦闘用ですらなかった者に負けたのに恥じ入ったのだ、と。
疲れたのだろう、と誰かが言った。ここに来る前も彼らは戦いに明け暮れていたと言うし、慣れない場所で生き続けるよりは、いっそそっちが楽だったのではないか、と。
そんなはずはない、とウェーブは叫びたかった。だって、少なくともネプチューンは、ここを気に入っていたのだ、と。重金属で汚れた海しか知らず、ようやっと青く澄んだ海原で泳げて喜んでいたのだ、と。そう反論したかった。
だが、ネプチューンは、ルーラーズは帰ってこない。それがどんなに言葉を重ねても太刀打ち出来ないほど、有力な証拠だと言う事を、ウェーブは知っていた。
数日、ウェーブは部屋に閉じこもってほとんどを泣いて過ごした。疲れては眠り、目覚めては涙を零しを繰り返す、そんな日々を送った。主たるワイリーが負傷 して帰った事と、ワイリースターの大爆発で大騒ぎとなっていた研究所の中で、彼の状態を把握していたのは同期の仲間と、水中用としては先輩となるバブルマ ンだけだった。
「君が、そこまで入れ……いや、好きになるなんてね」
泣き暮らす生活が六日も過ぎようとしていた時だろうか、尋ねてきたバブルマンは少し驚いたように言ってきた。涙で映りの悪くなった人工網膜に映る彼の手には、ウェーブが書き連ねてきた手紙があった。
「これ、ネプチューンに届けてあげようよ。彼は海が好きだったから、きっとそこに戻ってきているよ」
雲を掴むような提案に、最初は頭を捻った。数日その答えに悩み、今日やっと、正解がわかったのだ。
「……ネプチューン」
夜の匂いを含んだ潮風が体を包む。その風が海に戻るのを見計らって、手紙を手から放した。少しだけ重い紙片は空気の流れに身を任せて、陸地から離れて行き……暗色の波の中へと落ちた。それを皮切りに一封、一封を海に漂わせる。
彼はこの星の海が好きだった。散った場所は天高い所でも、きっとここに帰ってきている。海に送れば、きっとネプチューンの心は見つけて、読んでくれるはずだ。……ウェーブがやっと見つけた結論だった。
本当は燃やすか、刻んで細かくした方が良い、と言うのはわかっている。自分だって、他人がこんな事をしていたら腹を立てていただろう。でも、今はこんな事をする人の気持ちが、少しだけ理解できた。誰だって、自分の心を切ったり、燃やしたりなんて、したくないのだ。
最後の、一連の中で最も心を書き記した手紙を手放す。それは今までよりずっと向こうの、沖の方まで飛んで行った。
返事が、来る事はないだろう。もし返信があっても、自分が稼動している――生きている間ではないかもしれない。
だから、ずっと、抱えて行こうと、壊れて無くなるまで想って生きていこうと、そう決めたのだ。
背を丸めて、一度強く自身を抱きしめて顔を上げる。波間に、彼の姿を見た気がしたが、きっと錯覚だろう。ゆっくりと立ち上がり、名残は尽きないが磯場から離れた。
さよならは、言わなかった。
それから数日。ウェーブは泣きはしなくなったが、部屋に閉じこもって過ごしていた。何度か涙する事はあったものの、一日のほとんどを泣いて暮らしていた時よりは、少しは調子が良くなったのだろう。それでも、未だに彼の人の声を、姿を求めていた。
空に僅かに太った三日月が昇る。何か部屋の外が騒がしいようだが、確かめに出るつもりはなかった。毛布に包まり、体を温めるが、一向に熱は上がらない。末端はあの時からずっと冷えたままだった。
静かさを求めるレシーバーに、ドアを叩く音が届いた。時間的に見て、スターかクリスタルが夕食を持ってきてくれたのかもしれない。いつものように扉を開けた瞬間、ウェーブの時間が止まった。
最初は見間違えかと思った。しかしそんな事を犯すはずがないのだ。何度も何度も、その姿を再生していたのだから。
次に幽霊かと思った。ロボットが幽霊になるなんて、ありえるかはわからないが、永く生きていればそのような物ができても、おかしくないはずである。しかし、目の前の人には足があるし、半透明でもないから、それも違うようだった。
夢かとも思った。毛布に包まっていたから、夢と現実の境目がわからなくなっているんだ、と考える。でも、床の冷たさは、明らかに現実のものだった。
たくさんの可能性を思い浮かべて行く。今の出来事が現実だと思って、触れた途端に間違いだとわかったら、二度と立ち上がれないと、本能でわかっていたからだ。誰かのいたずらか、と次の予想をあげる前に、目の前の人は口を開いた。
「ただいま、です、ウェーブ。やっと帰ってきました」
レシーバーを通り過ぎる音は、自分が愛した、海底の漣と同じもの。……確定的だった。目の前にいるのは、間違いなく、彼、なのだ。
「ネ、プ、チューン……!!」
感情が爆発し、ウェーブはよろけながらネプチューンに抱きつく。普通なら、男が飛びついてきたら慌てそうなものだが、彼は優しくそれを受け入れた。
「どう、やって、生きて……」
もう、二度と会えないと、壊れて、ロボットにはあるのかわからぬ、来世とやらを頼りにしないと声も交わせないと、そう思っていた相手の胸に顔を押し付け、嗚咽で言葉を詰まらせながら尋ねると、ネプチューンは事情を話し始めた。
サンゴッドが敗北する少し前に、ルーラーズはワイリースターから脱出し、ひとまず安全圏まで逃れていた。爆発が収まった後、彼らは四散したサンゴッドの体の回収を始めた。空気の鎖のない宇宙で全てを集めるのは困難を極め、帰還が今日までかかってしまったのだと言う。
「重要なパーツを集めて帰ってきたはいいんですが、帰還時のテレポートで皆エネルギーは尽き掛けているし、夜で着いた場所が海上でどこ移動したらいいかわからんしで、もう終わりかと思ったんですよ。そしたら」
手にしていたらしい、何かを見せてくる。びしょびしょに濡れそぼった薄く、四角いそれは、ウェーブには心当たりがあるものだった。
「そ、れ……!!」
表に書いていた宛名はそのほとんどが擦れてしまっているが、それでも自分が書いた、ネプチューンへ、と言う言葉がなんとか読み取れた。そう、それは何日か 前に海に放した手紙――しかも彼の手の中にあるのはもっとも自身の心を書いた物――だった。驚いたままの表情で目の前の人を見上げれば、彼は柔らかく笑 う。
「これが浮かんでいるのが見えたんです。更に見てみたら、いくつもいくつも浮いていて……辿っていったら陸地に着いたんですよ」
機体全体が熱を持ち始める。動力炉の音が五月蝿くて、仕方がなかった。
届くとは思わなかった。彼の魂が、せめてこれに触れてくれれば、とそれだけを思っていたのだ。だのに、それ以上の事が起こるなんて。
歓喜か、それとも別の感情なのか、今のウェーブにはわからないが、とにかく体の震えが止まらなかった。
「ホントはね、最初は何かと思ったんですよ。陸地について、よく見たらワタシの名前と、アナタの名前が書いてあって、ああ、中身は私しか見ていません、安心してください」
落ち着かせるように、丸い背中を撫でてくる。掌は少し温かく、酷かった震えは次第に落ち着いていった。
「……消えたり、汚れたりでほとんどの物は内容がわかりませんでした。でも、これ、最初に拾った一つだけは、読めたんです。……ねえ、ウェーブ」
「……?」
手紙の角で、頬の辺りを突かれる。子供のいたずらじみた行動をする、ネプチューンの表情から、感情は上手くつかめなかった。
「こんな風にしたって、事は、もしかしたら、アナタの中では決着がついているかもしれません」
でも。
「もし、そうではなくって、アナタが、今でも、この手紙に書いてある通りの気持ちがあるなら、ですよ」
おかしい、とウェーブはふわふわとし始めた頭で思う。いつものネプチューンは、自分と違い、海の底の波音を立てて、とても流暢に話すのだ。なのに、今、目の前にいる男はつっかえつっかえ、しどろもどろに言葉を口にしているのだ。
「もし、もしも、そうでしたら、ね」
ワタシと、お付き合いしてくれませんか?
ネプチューンの言った言葉が耳に入ってくるが、うまく咀嚼出来なかった。訪れた台詞が、自分の都合に良すぎて。やはり夢なのかと疑るが、しかしCPUはしっかりと起動していると訴えていた。
言葉が全身に染み渡るまで長い時間がかかった。何かを思い、じっと見つめてくる男の顔は、心なしか赤いような気がした。それでも、自分の物よりはきっとまだマシなのだろう。
視界がゆっくりと揺らいでくる。しかしそれは以前のような絶望による物ではなかった。
「ネ、プ」
それ以上、口から音は出なかった。膨らんだ感情に後押しされ、言葉の代わりと言わんばかりに、ウェーブは大きく頷き、目の前の愛しい人に抱きついた。よろけながらも、ネプチューンは頬を緩め、飛び込んできた群青色の体に腕を回し、離すまいと少しだけ力を込める。
(後で、もう一度手紙を出そう。今言えなかった事をしっかり伝える為の手紙を。……今までみたいなヤツじゃない手紙を)
腕に甘えながら、ウェーブは心の中で決意を固める。ずっと冷えていた体は今、ようやく温まり始めていた。
終わり
涙が落ち着いた所を見計らい、ネプチューンは口を開く。
「……でも、ウェーブ、ひどいじゃないですか。思っていたのにあんな態度なんて、意地悪にも程がある」
「そ、れ……は……」
「だからね、ワタシも一つ、意地悪してもいいですか?」
「?」
「おかえりなさいのキス、アナタからして下さい」
目の前の男は、優しく、酷く意地悪そうに笑う。
「……ひどいヤツ……」
視線を彼から外し、ウェーブは恥ずかしそうに呟く。目の周りを染める朱は、そこだけでなく機体の色まで変えそうだ。
少しして……ウェーブは口唇部を覆うカバーを外し、恐る恐るネプチューンの唇に触れた。
「…………」
触れて僅かな時間の後、いよいよもって紅潮したウェーブはずるずると腕の中に落ちてゆく。恥ずかしそうに身じろぎをした後、忘れていたお帰りなさいを、そっと口にしたのである。
今度こそ本当に終わり
ヨジョウ様、お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
好きだと言ってくださった「ジギタリス」「さのかたのはな」と設定が違いますが、楽しんで頂けたら嬉しいです。
リクエストありがとうございました。
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